2010年5月7日金曜日

錦帯橋は中日の姉妹橋

錦帯橋は中日の姉妹橋

西湖の錦帯橋はその昔涵碧橋と呼ばれ、唐代からすでに存在していた。南宋になると、著名な画家李嵩が『西湖図』の中でここを描き「湖山佳処」と呼んだ。その後、永年の湖水による浸蝕で白堤は崩れ、この橋もなくなってしまった。
1589年司礼太監孫隆が白堤を修復し「十錦塘」と改称した。
また涵碧橋の跡には木造の橋を造り「錦帯橋」と命名した。
清の康煕年間には康煕帝の舟遊のため舟が通れる石橋に造り替えた。
1730年になると、浙江省総督の李衛が再度修復を加え橋は今の形となった。
不思議なことに、日本の山口県岩国市の錦川にも錦帯橋という同名の橋がある。中国の錦帯橋と違う点は橋の構造が木と鉄と石を使った五連のアーチ型ということである。
1653年杭州の僧侶独立禅師は日本に渡った。その時、彼はふるさと西湖の史料を多数携えて行った。その中の『西湖志』の堤に連なる橋にヒントを得た岩国藩主吉川広嘉はさっそく児玉九郎右衛門に新たな橋の建設を命じた。
1673年岩国の錦帯橋は風光明媚な錦川に映える壮観で美しい橋として誕生し、その橋はいつしか「錦帯橋」と呼ばれるようになった。
1973年錦帯橋創建三百周年を記念して中国の著名な書家趙樸初先生は記念の碑文を書いた。
2004年11月6日中日の錦帯橋は杭州市にて友好橋の締結をした。
二つの錦帯橋は中日両国人民の科学技術と歴史文化の永年にわたる交流の象徴であると同時に両国人民の友情の象徴でもある。