2007年4月20日金曜日

■米国旅行記12th WORLD JAMBOREE

■米国旅行記 12th WORLD JAMBOREE
 <<懐かしい思い出>>
 ボーイスカウト岩国第2団

■ 友情のために
 日本の国旗を制服にとりつけた。日の丸は日本人にとってあまりめずらしくもないものだが、私にとって、自分の身につける衣に日の丸をつけたのは生れてはじめてである。私の制服にもいろんなバッヂがつけてあるが、しかしそれだけはなぜか私に告げているように思えた。それは、「おまえは日本国民の代表として合衆国のアイダホ州ファラガット州立公園にておこなわれる第12回ボーイスカウト世界ジャンボリーに派遣されることになった。それにおいておまえは私に恥をかかせないような行動をとり、日本の若人として立派に世界の友とつきあって来い」と。

■ ワイドゲーム
 ワイドゲームと僕たちが聞いてもなんだかまったくわからなかった。ただジャンボリー参加者にアルファベットを書いた大きなカードだけをくばっただけであった。ところがいろんな説明を聞いているうちにこのゲームの意図するものがわかった。それは先ほどくばられたカード、実はその1つのアルファベットはこの大会のテーマである。For Friendship「友情のために」のFriendshipを異国人であるスカウト1人1人のアルファベットにより構成するものである。つまりこのゲームに参加するとたちまち世界の友が9人出来るわけであるが、合衆国の参加者が約1/3いたのでまったく異国の9人の友を作ることは出来なかった。今もその9人の友の名前を覚えているが、特に印象に残っているのはドイツのデイター彼は身長が190cmもなる大きな人だったが、年はぼくと同じ17才、とてもスポーツマンらしい体つきだった。一方イギリスのピーターはいかにも北欧的な顔をしており帽子につけていた鳥の羽が印象的だった。 このフレンドシップのもとに生れた10人のグループはこの大会で約1,500組となるわけだが、今後それぞれの小さな世界であるグループの中だけでも平和を求めて行きたいと思う。

■ ボンダレイ湖
 ファラガット州立公園のそばには大きなボンダレイ湖があった。この土地の人の話によるとこの湖のおかげで住民たちは魚つりを楽しみその上、生活に必要な水を多量にくみ上げることができるそうである。だからこの大会中僕たちは水に不自由することは1度もなく、いつでもシャワー場に行くと冷たい水がいきおいよく出てきた。キャンプ生活においても水は大変重要なものである。 このように水が十分あると、たくさん雨が降るのかと思われるかもしれないが、期間中雨らしい雨はまったく降らず、地面は乾燥しきっていた。やはり近くにこの湖があるおかげだろう。 この湖でこの大会に参加したスカウトたちはみんな水泳やカヌーをこいでは楽しむことが出来た。やはり湖なので水温はちょっと低かったが、みんなはしゃぎまわって水と戯れた。そして南洋の土人だちが乗っている船、カヌーに乗ったが、これは2人づつのるのでチームワークがよくないと、直線に進んでくれない。どこかのカヌーは同じ所をくるくる廻っていた。 このように第12回ワールドジャンボリーが成功した大きなカギをこの湖は持っているように思える。人間生活において水は必要かくべからざるものだから。

■ 交歓と交換
 交歓というものはこのような大会においてもっともねらいとするものであるが、その方法はいろいろあり、国同士の交歓もありまた隊同士又班、個人といろいろな形式で僕たちは、外人との交歓につとめたが、ボーイスカウトの交歓において、交歓した相手の思い出となるような品物又はサインなどを交歓するのも又一つの楽しみでもある。 日本人はこの交歓において、合衆国のスカウトたちのスケールとは比べものにならないほど小さい。彼らV.SAのものどもは、交歓となると金属製のトランクに、いっぱいにチーフ、スライド、パッチ、バッヂなどをつめこんで、僕たちのテントのそばに来て、貿易?のこうしょうに入る。そうして、こちらがO.Kということになると彼らに、テーブルの上に、品物をならべさせ、貿易?がはじまる。そうして日本側からはよく、こけしとか扇が輸出され、外国からはバッヂ(ワッペン)などが入ってくる。ところでぼくは、この交歓を貿易と言ったが、そばで見ているとさながら異国人同士の貿易縮図に見えてくるのである。そもそも彼らもこれをトレードと言っている。(trode vi 貿易する)このような交歓が会場のあちこちで見られるのはあまり好ましくないが、それによって友情がつかめるのならいいのかもしれない。事実彼らも交歓を忘れていなかった。 このようにして交歓した品物を日本に帰りまた、彼らが自分の家に帰って、それを見る時、かつて自分たちが交歓と交換をしあった友のすがたを、思い出すことだろう。そして、ペンフレンドとなり永久に文通し合い又あえることを楽しみに、勉学に又スカウティングにはげむことだろう。

■ 宇宙飛行士とスカウト
 合衆国では多くの青少年がスカウト生活をおくっていると言われるが、そのことはたやすく僕たちにも納得がゆく。それは、見知らぬ街でばったり合った、同じ年ごろの人と話していて、きみは、スカウトですか?とたずねると、多くの人がyesと答える。 このことは宇宙飛行士においてもしかりである。この大会の会場には、ジェミニとフレンドシップが展示してありU.S.Aの宇宙飛行士の写真がすべてあったが彼らのうち約80%ぐらいはスカウト経験者だという話を聞いた。そんなこともあるからか、閉会式の時、カーペンター少佐が来られた。その際空中歩行機の実演があったが、それでこれから来る宇宙時代において、月世界などで活躍するのであろう。そのころには、スカウトの生活はどのようになっているであろうか。もしかしたら、月でワールドジャンボリーというぐわいになるかもしれない。それにしても、その飛行士の大半をスカウト経験者でしめているということは、何かすばらしい感じがする。

■ イエローストン国立公園
 世界中のだれでもが知っている公園と言うとあまりないが、イエローストン国立公園と言えばだれでも知っているだろう。ここはワイオミング州の北西にあたり、森と湖と山がうまく調和している静かな所である。合衆国のみならず世界の各国からここには多くの人々がバケーションを楽しみにやってくる。よく日本の公園はあちこちにちりやごみがおちており、とても息苦しいという話をよく聞くが、まったくそのとおりだと僕もここに来て初めて思った。ちりも落ちていなければ落とす人もいない。もし落ちていたら、だれかが拾うというぐわいだからよごれるはずがない。この点において我々日本人はおおいに学ぶべき所がある。 ここでは、日本のスカウトは、4人1組になって、ロッジにとまったがその数の多さ、そして設備のすばらしさにはおどろいた。しかしそのロッジを使用するのは外国の人が割と多い。アメリカではトレーラー式になった家のようなものを車で引っぱって行きその中で生活しながら1ヵ月間をすごしている人もいる。このような光景は日本ではちょっと見ることができないが、そのうちこのようになるだろう。

■ 日本人と交通道徳
 ある外人が日本に来て次のようなことを言ったそうである。 「日本の運転手は、信号機を見る時自分の前のランプが青になって進むのではなく、反対の道のランプが黄になった時、彼らは自動車を動かし始める」 僕はそれを聞いた時、日本人のおちつきの甘さと、他人にゆずる心・・・・さまざまなものがとりあげられるが、とにかく合衆国ではとうてい見ることのできないものであるから、その外国人がそんなことを言ったのもむりもないことかもしれない。それに僕の見た範囲だけでは日本の東京のように人が多くその上車もあふれるほどいるような町はどこにもみあたらなかった。それに彼ら米国人は計画的に道路とオフィス街、住居地の関係をうまくつかんで道をとりつけているので今後どんなに発展しても日本のような状態にはならないだろう。 それに道を歩いても路上で立話をしたり、多くの人が横に広がって歩くこともなくそれはゆったりしていた。日本は国土がせまいので・・・・と言うような事をいつまでも言っていては、今後いつまでたっても進歩はない。ここらでひとつ日本人の知恵をしぼって71年のジャンボリーまでにでも外国なみにしたいものである。

■ ソートレイクシィティー
 フォストファミリー(民泊)をするのは初めての経験だったが、外国人の生活、心、に直接にふれるためには、1番よい試みだと思う。僕は、グレート・ソートレイクでよく知られ、又世界一の露天ぼりの銅山がある? とでも知られているソートレイクでビル・モーア氏の家に3日間おせわになった。彼の家は地下一階地上二階というすばらしい建物だった。そして、車は3台、カラーテレビも持っている割と生活水準の高い家だった。又彼は1人の息子と3人の娘を持っていた。その中にジムという名の14才のボーイスカウトがいた。やはり彼とは、スカウト関係の事については話があった。彼は、趣味として洋弓をたしなんでいるらしく、僕にアローヘッドをくれた。又、こちらからは姫だるまをプレゼントしたが、その美しさには大変おどろいていた。そしてこのだるまを、すぐに熱帯魚がいるたなのすぐそばにかざった。やはりここでも扇を見せるとめずらしがっていた。(扇は合衆国にはまったくないかと思っていたら、香港製のものが店で売られていた) 一方この地方は昔から銅を多くほり出しているので銅細工・銅製器が銅山のそばの店には多くあった。ところでこちらで買物した時たまげたことが2つあるので述べておこう。その1つはこの国ではタックス(税金)があとからつくので定価のままで品物が買えると思ったら誤解を生じてしまう。つまりタックスが定価の約数パーセントかかるのでそのほうも頭に入れて買わなければならない。しかしノータックスの所もないことはない。2つ目は、この国のおつりの出し方である。日本だったら、もし70円の品物を買い100円はらうとすぐ30円とさし引、残高を言って返すが、彼らは70円80円・・・100円と10円玉をたして100円にまでかぞえるとやめてしまう。つまり日本とは、反対で彼らは引算をしておつりを返さない。 ところでこの町の名ソートレイクシィティーのゆえんはこの町にある大きな湖がありこの水がとても濃い塩水なのでその湖がグレートソートレイクと言われるようになり、又その湖の名をとって、ソートレイクシィティーとよばれるようになったのであろう。この町にはゴシック建築の大きな寺院とかユタ州庁とかいろいろ有名な建造物の多い町でもある。又ここに小さな動物園があったが、ちゃんと日本ざるのおりもあった。僕はそれを見た時何かうれしいような気がした。 この町を立つ前の日、この家族の人十数人で近くの山の中でバーベキューを楽しんだ。その時、僕と同じくギターを愛している18才のスカウトと友達になった。彼はギターをはじめて約1年ぐらいだと言っていた。この時音楽に国境のないことはすばらしいことだと思った。そうこうしている内に3日間はあっという間にすぎ、彼らに別れをつげた。その時彼らはこう言った。「ふたたび我々の国合衆国に帰ってきなさい・・・・」 僕はいつの日にかこの地をふたたびふむことが出来ることを信じて、この町を去った。

■ 長距離バス
 ジャンボリーが終って僕たちはこの国の西部諸都市を長距離バスで旅行したが、この車は大陸横断道路などをつっぱしる時は平均時速約110Km/hで走っている。しかし、車が大きくみわたすかぎり変りばえのしない平原なのであまりスピードを感じない。バスには40人乗ったが、とてもゆったりしていて長い時間乗っていてもあまりつかれない。それにバスの内に便所もあるので快適そのものである。 ところで平原について少々述べると、やはり米国、日本とは段ちがいで、みわたすかぎり平原ではるかかなたに低く山が見える程度の状態が数時間続くのには驚いた。このバスだが前から見ると日本のバスよりぶかっこうであるというのは座席の床の下が広いトランクとなっておりその中にリュックサックとかその他の荷物が入れられる様になっているので縦に長くなっているのである。そして又不思議に思うことがある。それは、日本なら車のナンバープレートは、1台の車に1個しかつけてないのは当然だが、このバスはちがう。数個のナンバープレートをとりつけていた。なぜならこの国の政治形態は州中心となっているので各州によって発行している。それが異なるのである。  したがって他の州に行く時はその州に入る許可証をとってさらにナンバープレートもついていなければならないのである。このような点は日本より不便である。

■ バスと運転手
 この国では運転手は10時間働くと8時間は必ず休まなければならないという法律があるそうだ。これには僕たちはまったくまいった。なぜなら、観光会社の段取が悪く、運転手の交たいがうまくいかず1日の日程がずれてしまった。彼らは自分の任務が終るとさっさと車から降りて行き食事をとり時間が来るまではいっこうに帰ってこようともしないのである。このようにしてはバスの中ですごしたのであるが、そうしているうちに、この中がよごれてくる。そしてよごれて次の日の朝バスに乗ってみるとまったくきのうのままである。つまり彼の考えは、自分たちは運転だけを忠実にしておれば自分の仕事は終わりだと思っているかのように思える。それも合衆国における物の考え方により必然的におこり日本人にとって納得の行かないものかもしれない。

■ 移住民と日本
 移住民といえば、日本の多く見られる町でしられているハワイ、ロスアンゼルスにはたくさんの日本人移住者がおり、その2世、3世も今ではぼう大な数となっている。 ところでハワイの72才になるおばあさんに聞いたいろんな話のいくつかを述べてみよう。彼女は51年前にハワイに渡って来たそうでこの島では割とふるい人である。もちろん、2次世界大戦中もこちらですごし、彼女の息子達は米国側について日本と戦ったそうである。そしてその戦は彼らにとって大変つらくかなしい戦だったそうである。かつて自分の母親がいた国、日本を相手にして戦った彼らの気持がいたいほどよくわかった。しかし、彼女らはいつでも日本が勝つように日本が勝つようにといのっていたそうだ。そしていつのまにか戦争が終り米国が勝ったと知らされてもまだ日本が敗けたような気はしなかったそうだ。 その後彼女らの心は変った。それは戦争まえは、いつの日か自分達は日本に帰れる、と考えていたのがこれによってもはや日本に対して背をむけた自分たちがどうして日本に帰ることが出来ようか。それよりこの国に一生とどまり日本人として立派に生きよう。という決心がおこり、この地に骨をうめるかくごができたそうである。しかし今でも彼らは日本をなつかしく思っている。そのしょうこに彼らの多くは米国本土には行ったことはなくとも日本に帰ってきたことのある人はたくさんいる。やはり彼らは日本をすてたのではない。いつでも彼らの心には日本に関係あるものが何らかの形でひそんでいる。 彼らは、米国を愛しつつ日本に対してもそうしているのだ・・・・。

■ 空と海のごとく
 空と海、この美しさを合衆国に来て、いっそう認識した。それは日本のように、ばい煙によごれることなく、また工場からながれてくるよごれた水もない。こんなことは、この国においてはまったく当然のことで、空を見ても海を見ても日本とはまるっきり色がちがう。したがって、山を見ても、島を見てもその美しさが一層ひきたつのであろう。その空のごとく海のごとく彼らの心もすんでいるにちがいない。それを証明したものがあった。 ロスアンゼルスに民泊した時のこと。僕たちはボーイスカウトのリーダーの案内でスカウトのキャンプ場であるファイヤーストーンを見学したが、その際、僕はさいふを落としてしまった。その中には割と高額なお金が入っていたので、僕たちはいそいでさがしたが、見つからなかった。しかたなくその場はあきらめて帰った。ところが数時間後その地において、スカウトの1人が僕のさいふを発見したという電話が入った。そして彼はそれを車でとどけてくれたが彼はお礼のなにものをもうけとらなかった。しかたなく彼の名前と住所だけを聞いて別れたがほんとうにスカウトらしいいい人にあえることができてよかった。 やはりこの国の人々の心は空のごとく海のごとくすんでいるにちがいない。
 この大会に参加して、スカウト活動のすばらしさと、B.Pの偉大さに感心した。もしこの大会をB.Pがごらんになったらどのようにおっしゃるであろうか。おそらく、「これこそ私のねらいとした、世界の若人のあつまりである」と。

1 件のコメント:

中島 宏 さんのコメント...

てんもんさん  アメリカ旅行記を見ました。派遣隊同じ隊だったみたいです。山口から参加していて覚えているのは、山口で肉のバイヤーをやっていた、原田クン?大柄のスカウト。 派遣隊の隊長は守部 副長は阿部 石崎でした。懐かしい思い出は私の思い出とオーバーラップしました。